チャプター01

        

        更新 (平成15年10月04日)

現在のメンバーになって、はや2年!この間HPの更新を一切やってなかったのでそろそろ重い腰を上げて新しい内容に!
と思いまして、ボチボチアップしようと思ってます。このHPの運営・管理は全てリーダーであるわたくし越智が担当して
おります。メンバーのプロフィールなど随時更新して行く予定ですので気長にお付き合い下さいね!取り急ぎリーダーの
「ぼやき」とでも言うーんでしょうか?だらだらと文面をアドリブで、、、そもそもこのバンドがスタートした由来は?
あまりに昔の話なので発起自体が既に風化されつつある状態ですが、人の出会いって言うーのは不思議な現象で今更どう
こう言うつもりはありませんが、集まるべくして揃ったって感じなんですねこれが。

あれは僕がまだ中学3年生の時、1年上の先輩(妙に頭脳がたけてたのがむかつく先輩でした)が高校受験勉強に励んで
いる僕の隣で「神田川」をフォークギターで弾きまくっていました。何度も繰り返し弾いては「どや、うまいだろ」って
言うんです。あんまりむかついたので「神田川」の弾き方をおしえてもらいました、なぜって?思ったんです、僕の方が
絶対、彼より上手く弾けるってね!案の定でした(^_-)実は僕は大のギター嫌いで知人の部屋に置いてあるフォークギター
などとにかく全く興味がなく、あんなめんどくさい物なんか絶対にかかわらない!と子供の頃から思っていました。これ
本当なんですよ。幼少時代、2年くらい親に無理矢理ピアノレッスンを受けさされた経験がありまして、そこでも楽器に
対して悪い印象しかありませんでした。とにかく指で触ってそこから音が出るこの「楽器」と言う物体がどうも肌に合わ
ないと思っていました。ちなみに受けたピアノレッスンなんですが、姉と2人で受けました、圧倒的に姉の方が上手くこ
れがまた僕のむかつき度をあおっていた事を覚えています。

この国で生を受ければ一応おとなり近所・町内・社会一般・親類などの目が24時間監視って言う状況が成人式を迎えた
世に言う「大人」の世界に仲間入りした後でも続いていると!そこでせめて高校は卒業しないと一生後悔するとの親の暖
かい言葉に乗せられて某高校の普通科を受験しました。受験して高校ハイレベルな学校だったのですが、なんとか合格す
る事が出来、合格発表の朝おやじご自慢の愛車「スバル レオーネ」で会場に乗り付け合格者の番号掲示板を必死で見た
記憶があります。ところが僕は合格発表のその日に学校を退学しました!不合格の人には申し訳ない気持ちでしたが、こ
れで補欠の人が繰り上がって入学出来ると!僕が受験したのは学校へ行く為ではなく日本の公立高校へ受験し合格したと
言う証が欲しかっただけなんです。

中学2年生の春休みにお袋の無理矢理の策でアメリカで2週間程、セミナーを受けさされるハメになり、当時不良グループ
にどっぷりハマっていた僕にはせっかくの春休みをバイクで暴走してストレスを発散する予定が、、、それもこのセミナー
は全国から中・高校生が集まり米国での私生活体験セミナーと言う僕には耐えられないような「マジメ」集団の集いです。
なんと集まったのは全国から抜粋された150名。2〜3人が同じ学校から選ばれ、しかしながら僕の学校からはなぜか僕一人
だけなんです。こんな状況で外国へしかも英語の英の字もわからない僕にとっては、地獄のような2週間になる事は明白でし
た。お袋は小さな美容院を営んでおり常連のお客の中に学校の先生連中がおりその先生のすすめで「お宅の息子さん、春休
みにアメリカへ行かせなさいよ」って感じでね。今となっては先生のおすすめにいや、策略にとっても感謝しております!
秋月先生、有り難うございました(^_-)

地獄の2週間の始まりに怖じ気づいていた僕でしたが、羽田国際空港に集まってくる同士(笑)達を見るとさらにビビリまし
た。なぜかって?だってまず服装が違うじゃーあーりませんか!みんないいとこの子供なんですよ、なのに僕のかっこうは
田舎者丸出し、、一人だけ「YAZAWA」って言う感じに対し他のみんなはシューベルトって言う上品な。。。別にYAZAWA
のFANである事が悪いんじゃーないんですが、こう雰囲気が違うとね。追い打ちを掛けるように悪い事は続く物で髪型が僕
以外はみんな長髪だったのに対したった一人僕だけが、丸刈りなんです。しかも言葉に方言が無い??なんじゃーこいつら
は?と思い飛行機に搭乗した記憶があります。

元々おとなしい性格では無い事が報われたのか地獄の旅となるどころか帰国する頃には友達も出来、すっかり人気者となっ
ていました(^_-) 一人だけ丸刈りだった事もあり他のみんなにはコッケイに写ったんでしょう!現地でも英語は話せません
でしたが、ジェスチャーで外人・日本人を前に形振りかまわず行動した事がブルジョア達には受けたんだと思います。それ
以外では太刀打ち出来ませんでしたので!米国での滞在先はLAから北に2時間くらいのOJAI(オーハイ)と言う田舎町です
田舎町なんですがそこでは毎年有名なテニストーナメントが開催され、ハリウッドの映画監督や著名人・セレブがひっそり
と住んでいるところです。オーハイにはキャンプラマーと言う宿泊施設がありそこを拠点として各人ホームステイを経験し
ます。僕がお世話になったご家庭は医者のお家でとても大事にしてくれました。でもあの時点ではまさかその町に将来住む
なんて思ってもいませんでした。ただ米国で見た物・人物・山・空 全てが映画の世界のように思えた記憶があります。

帰国後、中学3年生の僕は「アメリカしかない」と思い始め早速親との交渉に入りました。頭の中には「留学」の2文字だ
けが脳裏を駆けめぐり約半年間、親とケンカいや交渉をしました。結局日本の高校を受験し無事合格出来れば渡米させてく
れる運びとあいなりまして僕には転機がやって来ました。15才丸刈りの男子が大きな夢を抱きいざ初陣!なんてカッコよい
訳がありませんでした。東京にあった某留学斡旋ルートでアメリカへ入国する事になりました。当時はビザが必要で神戸の
領事館へ申請に行った記憶があります。一緒に留学したのは12名でその中には大学生が10人とみんなお兄さんヅラしてい
ました。もちろん僕は最年少でしかも丸刈り!みんなは僕がなぜ日本の高校へ進学しないのかって聞かれましたがどう返答
したのか覚えていません。おそらく高校入試に失敗したので留学するんだろうって思われていたようです。

出発当日、搭乗ゲートに入る時見送りに来ていた親父が階段の中段くらいのところに足を掛けこちらにVサインを投げかけ大き
な声でこう言いました。「留学するのなら10年は戻ってくるな」ってね!やっぱり変わった親父だなと思いながらその場を後に
しました。つづく。。。。。(平成15年10月04日)


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